仕事の息抜きにTwitterを見ていたら、こんなツイートが目に入った。
「イケメンはそれだけで人生イージーモード、女に困らない」
かなり概要を折りたたんだれど、肝はこんな感じの内容。まぁ実際、半分そうだと思う。「女に困らない」は言い得ている。でも、イケメンなだけで人生イージーモードは、ちょっと違和感を感じて考えてみた。
目次
イケメンの価値は、若さの価値とは違う

似た話でよく例えられるのが「女性は若いほどモテる」だと思うのだけれど、まぁこれは真理だと思う。っていうか、本能的に「健康な子供を産める年齢」という眼鏡で男性側が見ているので、当然なんだよな。
当然年齢を重ねるほどに人間として成熟していくわけだし、その年齢でしか出せない魅力は必ずある。それでも若い方がモテるのは本能という抗えない波動によるものだし、若さは消費される財産だからこその希少性も関係あるんだろう。デパ地下のチョコレートの、季節限定商品がすぐ売り切れるように。限定じゃなかったら買わない人も、たくさんいるだろう。
だから女性の「若さ」は外面的であると同時に、内面的でもある。シミやシワの無いピチピチなお肌、ツンと上を向いた頬やお尻、潤いのあるみずみずしい髪や爪といった外面的価値だけでなく、
人格形成途中の未熟さ、あどけなさ、初心さ、若さ特有の向こう見ずなフレッシュさなど、内面的な価値も孕んでいるのが「若さの価値」だと思うのね。
それと比べて「イケメン」はどうだ。
イケメンの価値は、時間の経過にあまり左右されないように感じる。もちろんそれは本人の一定水準の努力があってこそだけれど、10代イケメンだった人が50代になってブサメンになることはあまりない。渋みが出る。あぶらが乗る。むしろ若い頃よりモテる、まである。
でも少なくとも、女性の若さの価値と比べて「内面的価値」が含まれているとは思えない。あくまで「イケメンか・イケメンじゃないか」は外面的価値であって、その内面性はまた別の要素なのだ。
それでは、男性にとっての「イケメンの価値」と同質の意味を持つ、女性の価値ってなんだ?
と考えた時に、私の頭に浮かんだ答えは「おっぱい」だった。
男のイケメン=女の巨乳

巨乳は、完全なる外面的価値である。
イケメンの価値は、内面的価値を含まない。
パチンカスだろうが、DV男だろうが、不倫浮気上等のヤリチンだろうが、イケメンはイケメンなのだ。どんなに内面がクソだろうと、外面的価値は変わらない。パチンカスな「イケメン」、DV野郎の「イケメン」なのだ。
イケメンは、問答無用で女性を寄せ付ける。これもまた女性側の本能なのだ。より優れた遺伝子を残したい本能が、外面的価値の豊かなイケメンに引き寄せられる。(中身の伴わないイケメンほど厄介なものはないが、これはまた別の話)
これは巨乳にも当てはまる。サークルクラッシャーなビッチの巨乳。男は奢って当たり前だと考えている巨乳。友達の彼氏を寝取る巨乳。性格が悪いのを自称サバサバ系で片付けている巨乳。
どんなに中身がゴミであろうと、乳がデカいという一点突破型の最強ウェポンのみで、巨乳は男性を引き寄せる。そしてこれもまた男性の本能だろう。より良い子供を産めそうな女性に惹かれる。私は女なので外的情報でしかないけれど、男性はひとまずは問答無用でおっぱいが好きだという。
貧乳派・巨乳派などはこの際置いておく。「大は小を兼ねる」という言葉がある。日本人の平均バストサイズは概ねB~Cカップだ。貧乳を探すより巨乳を探す方がどんなに難しいことか。常設よりも、期間限定のチョコレートに、人は並ぶ。
纏めると、
- 内面的価値を一切含まない
- 本能的に強烈に引き寄せられる
大きくこの2点において、男女間で「イケメンと巨乳はほぼイコールの価値」がある。
さて、本題に戻すと。
「イケメンは、イケメンであるだけで人生イージーモードか?」
答えは、NOだと思う。
幸福のありかは本能ではない

なぜNOなのかを説明する前に、幸福とは何かを分析してみる。
私たち人間は地球上では高度な知的生命体だ。人間と虫の違いは「命の目的を自分で考えているか否か」。虫にも私たちにも本能があり、本能とは子孫を残すためのプログラムだ。でも、私たちは果たして子孫を残すためだけに生きているだろうか?
そんなことはないよね。子孫を残すだけでいいなら、レストランは必要ない。コンドームなんて邪魔なだけだ。
ラッキーなのかアンラッキーなのか分からないが、私たちは自分で幸福とは何かを考えられる知的生命体だ。だからこそ「幸福に生きる」ことを目的としている。
美味しく味付けされた料理も、子孫繁栄を目的としないセックスも、1着3万円のワイシャツも、推しのアイドルライブで振るサイリウムも、全米が泣いた傑作映画も、働いた後のキンキンに冷えたビールも、本能の衝動とはかけ離れた概念だ。
何が言いたいかというと、
私たちは幸福になるために生きている。
けれど、
幸福のありかは本能には無い。
ということ。
じゃあどこにあるの?というと、感情だと思う。
子孫繁栄に関係なくても、愛する人と体を重ねたい。無くても生きていけるけれど、かっこいい服や車が欲しい。嫌いなアイツに勝って、スッキリしたい。大切な人の笑顔が見たい。
幸せの形は人それぞれだけれど、幸福のための行動原理の源泉は「感情」だ。なぜなら私たちは、自分で幸福の形を選択できる高度な知的生命体だから。
「人それぞれの幸せの形」の中に、出産やセックスや家庭が組み込まれているだけで、私たちの幸せそのものが子孫繁栄ではない。
イケメンは、イケメンというだけで、女性を引き寄せる。
これは事実だ。本能だから。
でも、
イケメンは、イケメンであるだけで「女性に幸福を与えられるだろうか?」
幸福において、イケメンは既に「減点形式」である

前提として、私たちは本能からは絶対に逃げられない。だからこそイケメンは女性を引き寄せる。
本能=幸福であれば、イケメンはそれだけで幸福のアイコンそのものだ。本能に従うことが種が存続するためのテストであれば、イケメンであるほどに点数は加点され、いわゆる「非の付け所の無い完璧なイケメン」であればそれだけで100点満点だ。
けれど、残念ながら、これまで説明したように、私たち人間の幸福は必ずしも本能とはイコールにならない。
本能=幸福の方程式が、本能≠幸福に変わった時に、イケメンの価値は存続テストにおいて「減点形式」になる。
前半で例えた同じ言葉を、もう1度引っ張ってくる。
『パチンカスだろうが、DV男だろうが、不倫浮気上等のヤリチンだろうが、イケメンはイケメンなのだ。どんなに内面がクソだろうと、外面的価値は変わらない。パチンカスな「イケメン」、DV野郎の「イケメン」なのだ。』
これが、こうなる。
『パチンカスだから、DV男だから、不倫浮気上等のヤリチンだから、イケメンでもダメだよね。内面がクソだから、外面的価値も無駄だよね。イケメンだけれど「パチンカス」、イケメンだけれど「DV野郎」なんだもん。』

関係性のスタートは、同時に存続テスト=パートナーにとっての「私が幸福かのテスト」の始まりだ。本能に揺すられイケメンに惹かれ、イケメンと付き合い始めた時点で幸福値は51~100点(イケメンの外面的価値を、平均値以上として最低51点/最高100点と置く)。
私たちはパートナーと関係性を持つ時に、必ず自分にとってどのようなメリットがあるかを天秤にかけている。それは自然なことで、どれだけ一緒にいて幸福を感じられるか、もとい、どれだけ自分に幸福を感じさせてくれるかを測りながら、相手に捧げる愛を見繕っている。
もしも内面的価値も伴っているイケメンであれば、ここから点数はうなぎ上りだ。一例を挙げると、
- 料理を作ってくれる…+10点
- 年収が良い…+15点
- 親を大事にしてくれる…+8点
- スタイルが良い…+5点
- 動物が好き…+12点
- 同じ趣味を持ってる…+20点
- etc,etc………
当然ながらこの加点ポイントはまさに千差万別だし、1つの項目で高得点の場合もあれば、何十個もの項目が1項目ごとに低点数で設定されていることもあるだろう。肝心なのは「トータルで100を目指している」ということ。
ただし、人間は完璧ではない。絶対に。仕事柄、絶対表現には気を使って文章を書いているけれど、これは「絶対」だ。人は絶対に「100点にはならない」。それを知りながら、できる限り100点に近い相手を探し、一緒に過ごす中で相手を見ながら、理想の幸福の答え合わせをしていく。
本当は100点がいい。けれどいないから、30点よりは50点の人を。80点よりは85点の人を。これが、私たちがパートナー探しにおいて半ば無意識に行っている「妥協」そのものだ。
そして「顔だけのイケメンと一緒にいる時の幸福値」は、この全てにおいて、減点方式で算出される。
なぜなら、顔だけだから。
外面的価値だけで約束された、最初のボーナス点である51~100点。でも、顔だけが良いのみでは、この点数から上がることはない。必ず、下がる。そして、高得点だった過去は美化される。中身だけのイケメンは、パートナーから「51~100点だった頃と比べられ続ける」のだ。
減点されたイケメンの未来と、巨乳との違い

そもそもテストには、男女限らず人それぞれに、許容ボーダーラインとなる点数がある。〇〇点を下回ったら許容外、というように。
時には、この人と一緒にいたいから点数を上げよう!とパートナー側が教育を施すこともある。まさに教育だ。もちろん、一緒にいたいがために許容ボーダーを苦渋の決断で下げることもあるだろう。
顔だけイケメンは、このボーダーを下回る速度が速い。顔の初期加点は固定数なので上がりはしないのに、顔以外の要素の点数が下がり続けるからだ。テストの上限は100点なのに、下限は0点ではない。加点はトータルで100点なるのに、減点は0点を下回ってもどんどん落ちていく。
イケメンの初期加点はあくまで「100点を取りやすくするためのアドバンテージ」であって「100点」ではないのだ~~~~!!!!
かくして顔だけイケメンの点数は、各々の女性ごとに下限ボーダーを下回り、見切られる。だがイケメン本人は自分の外面的価値が51点以上であることを自覚しているので、加点のために必死になることは難しい。もとい、必死にならなくてはいけないと気付くことが、難しい。
でも、女には困らないのだ。近寄られては去られるのを繰り返しながらも、モテ続けることはできる。だから「女性には困らないけれど、イケメンというだけで幸せになれるとは限らない」と私は思う、という話だ。
これが、この話の、私の結論。

そしてこの「見切り」は、女性から男性に対しての方が迅速に行われる。
理由は、時間は有限だから。
若さは有限だから。
女性の若さは、男性の若さよりもずっとずっと「内面的価値を多く含む外面的価値」だからだ。
顔だけのイケメンの内面的価値を高めるためにコストをかけるより、元々内面的価値を持っているそこそこの男性を探した方が、遙かに楽に、安全に「己の内面的価値を消費する前」にテストの点数を稼げるのだ。
ここが、顔だけイケメンと乳だけ巨乳の違うところだと思う。
男性は、中身がクズの巨乳に対して、改善を試みようとする余裕が女性よりある。なぜなら、イケメンに限らず男性の外面的価値は若さを消費しても保たれるからだ。余裕があるから巨乳(外面的価値)に夢を見ていられる期間が長い。女性のイケメンに対するそれと比べて、ずっと。
まとめ~人間やっぱ中身は大事だぞワハハ~

とんでもなく長文になってしまった。読んでくれてありがとう…💌
まさか「人間、中身が大事だよな」ってことを言うためにこんな長くなるとは思わなかったんだよ!すまねぇ…
でもほんと思うですよ。顔だけの奴とは長続きしないもん。昔とにかく顔がいいDV男と付き合ったけれど、やっぱダメだった。病んで振った。怒った顔もかっこよかったけれど、全然ダメだった。
その人は今40歳だけれど、やっぱすごく顔はかっこいいよ。でも、もう付き合いたいと思えない。中身が大事だもん、人間やっぱさ…って、思うよ。ほんと。これ、性別が逆で相手が巨乳だったらどうだったかなぁ。って思いました。今とは違う結果になってたかもしれないなぁ、ってね。
(まぁ、でも。「もしも」は、無いから。)
私が若いから付き合っていたのかなぁ。
それとも、私だから、付き合っていたのかなぁ。
これだから、恋はやめられないですね。
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